日本人の幸福

                                        日本人の幸福・・・自由 平等 公平


 私たちが幸福感を感じる要素の中に自由平等公平というものがあります。 日本は世界でもまれな自由さのあふれた国であり、欧米先進国と同様の言論の自由職業選択の自由など、他人に害を及ぼさない限りほとんどの自由が保証され、さらには民族的に宗教に寛容なため、信教の自由はもとより、社会的環境でも特定の宗教に縛られない自由さでは秀でています。 欧米先進国も信教の自由は謳っていますが、社会的環境はキリスト教の教義に縛られることが多く、日本のように仏壇の隣に神棚を置いて平気というわけにはいかないようです。
 また、平等さでも突出していて、欧米の成功した経営者は年収何十億円というのはザラザラいるようですが、日本では年収10億円を超える経営者はあまりいないようで、年収が過大だと社会的批判が生まれる雰囲気さえあります。
 更に、公平という面でみると、欧米先進国と肩を並べ、アジアの国では突出しています。 日本以外のアジア諸国では、政治家、公務員などの権限者はことごとくわいろを要求し、小から大までわいろで動くことが文化となっています。 文化となっているから、当然民間の権限者もわいろで動くわけです。 お隣韓国では、大統領経験者が失脚後刑務所に入らなかった人が何人いるかというレベルです。 大統領がこうですから、他は推して知るべしです。 中国では習近平汚職撲滅を掲げ、共産党最高幹部経験者さえ収監されていますが、このことはトップから末端まで腐敗が横行していることを物語っています。

 このように日本では、自由、平等、公平という尺度で見ると世界の先進国といえるでしょうが、行き過ぎて悪平等に陥る考えも広まりつつあると思っています。
 今回は、平等と公平というものについて考え、より幸福な国を目指すにはどうしたらよいかを論じてみたいと思う。

 

                                                                平等と公平論


 「平等」と「公平」、この似た言葉、実は大きな違いがある。その違いの認識なしに使用され、実行されていることが、世の中を悪くしている大きな原因の一部となっている。 先ず、言葉を定義してみよう。

 「平等」・・・・個人の資質能力努力成果に関係なく一定の規則通りに遇する                                 システムとなっていること。
 「公平」・・・・すべての人に対し、機会が均等に与えられており、成果を上げた者                                 が評価され、報われるシステムとなっていること。
 
 人間社会は「公平」でなければなりません。これを「平等」と勘違いをしている愚か者が社会システム造りに参画すると、とんでもないことになります。世界では100年あまり前に国家レベルで、「すべての人間は平等でなければいけない」ということで共産主義という考え方が生まれ、かなりな数の国で「平等実験(共産主義実践)」が行われました。結果はそれらの国すべての経済体制が破綻し、人間は「平等」という考え方で集団をつくると殆どの人が「最も低い能力の者に合わせた力を発揮する集団」になるということが判りました。考えてみれば当然でしょう。うんと働いても少ししか働かなくても報酬が同じならば、多くの人間はだんだん働かなくなる方向へ行くのは目に見えています。

 これに対して資本主義では、働きの良い者と悪い者の報酬には多大の格差があります。この格差があるからこそ人は、「自分ももう少し頑張って報酬を増やそう」と考え、社会システム全体が進歩してきたのです。人間社会、否、生物の社会では格差が生じるのは当然のことであり、むしろ、格差が社会を進歩させる原動力となるわけです。
 
 それでは、全く自由に放任すれば、社会システムは良い方向へどんどん進化するのでしょうか。そうでないことは過去の歴史を見れば明らかです。私たちは正常な格差が生じるようなルールを見つけねばなりません。この考え方の基礎となるのが「公平」です。
 
 公平の定義にあるように、人間すべてに「自らの努力次第でどんなに大きくも成長出来る機会」が均等に与えられている事が必要です。人種、国籍、家柄、性別等による活動制限を合理的ルールで極力取り除き、どのような人でも、どのような方向にも挑戦することが出来、成果があればきちんと評価されるシステムとなっている必要があります。公平なシステムが機能すると社会は良い方向へ進化します。

 ここで、よく言われる「男女平等」ということについて考えてみましょう。
 これも本来「男女公平」な世の中を造るという考え方にすべきです。
男と女(オスとメス)はもともと違う役割を持って地上に生まれてきています。これを「平等」に扱うというのは甚だしい「不公平」です。人が生きる目的は「幸福になること」ですから、女性側から見て、男性と同じ能力を発揮し、同じ評価を受けた方が幸福だという人はその道を歩み、逆に、男性とは違い女性にしか歩めない道を歩む方が幸福だと感じる人はそちらの道を歩むというのが、最も多くの幸福を生み出すことになります。

 男だから、または女だからこうすべきだという偏見や悪慣習は時代に合わせて合理的に是正していった上で本当に「男女公平」な社会を作れば、自ずと女性の方がより適した職種、又、男性の方がより適した職種が生まれるのは当然であり、ある職種や地位で男女同数にすべきという議論や規制はより「公平さ」を欠いています。

 又、同じ職種でも、女性は男性に比べ、「筋力」「闘争心」「出産リスク」といった使用者側から見たマイナス要素がいくつかあります。これらを含めた総合評価で報酬が決定される事が「公平」という考え方です。「らしく生きる」という言葉が嫌いな、いわゆる活動家といわれる方もおられるようですが「女性らしく」「男性らしく」という価値観を大切にしている人はたくさんいますし、私はそれが大多数の人間に大きな幸福をもたらす価値観だと思います。その価値観を大切にしている人は、その価値観に従って自分のポジションを選択できるシステムが「公平」なシステムと言える訳です。

 
 次回は「教育」についての「平等」と「公平」について考えてみたいと思います。