目的は何か

 

私たちは、企業経営のみならず、日々の社会生活を送っている中で「自分がいま行っているこの行動の真の目的は何か」ということを考えると、無駄な悩みや行動がなくなり合理的で幸せな生活となることが多々あります。 今回は「目的は何か」というキーワードで書いてみたいと思います。            

 

            「目的はなにか」を考える

 私たち人間は社会を形成し、いろいろな活動を行っています。自分の思い通りの人生を送っている人は少なく、多くの人は何らかの不平や不安、不本意な思いを抱きながら生活しているのではないでしょうか。一体私たち人間は、なぜこのような思いを抱きながらも毎日生き続け、生活を続けているのでしょうか。
 人間以外の生物が生き続けているのは、神が創った種の保存プログラム「本能」により、種が永続するための行動を黙々と続けているだけなのですが、人間も同じなのでしょうか。
 私は、人間と他の生物とは決定的に違う点があると思っています。その違いとは、神は人間に「幸福になるための知恵」を与えたということです。人間が生きている目的は「幸福になること」なのです。
 それでは私たちは、神から与えられた知恵を「幸福になること」に使っているでしょうか。もし、違っているとすれば、私たちは神の意思にそむいて生きていることになります。
 世の中の多くの人は「目的」と「手段」を混同して生きています。目的は「幸福になること」であるのに、「金持ちになること」「権力を握ること」が目的化して、毎日心休まらない不幸な日々を送っている人は山のようにいます。
 この  “「目的は何か」を考える”  の項は、シリーズとして、いくつかのことを思いつくまま書いてみたいと思います。賛同される方、されない方、いろいろなご意見をいただけたら幸いです。

 

                                             その1  宗教の目的はなにか

そもそも宗教は、多くの人が抱える心身の不安、悩み等を、特に精神面から安らかで安定した状態に変え「幸福感を持って」過ごせるようにするもののはずです。 すなわち宗教の目的は「人を幸福にすること」です。
世界中にいろいろな宗教がありますが、おそらく名のある宗教の創始者はその思いで人に説いていたのが広まって、世界的な宗教になったのであろうと思います。
ところが宗教も時を経て大きな団体になると「幸福の追求」が「権力の追求」「利益の追求」を目的とする指導者が多くなり、変質していきます。
本来、多くの人の「心の幸福」の追求であれば、他の宗教を信じて心の平安を得ている人に、強く改宗を迫ることはすべきではないはずですが、自らの集団の拡大や権勢の増大が目的化していくと、他宗教を攻撃することとなります。
宗教に限らず、企業でも創業者が社会に貢献すべく高邁な志をもって成長させた後、引き継いだ経営陣が事業の目的を「利益をあげること」と勘違いをして不正に走ることは多く有ります。 また、自らの権益を追求するために権力闘争に明け暮れることは珍しくありません。 人間は集団を作ると権力を欲するものが現れ、無知な大衆をもっともらしい自説で洗脳し、自派に引き込んで自派を大きくし、更なる権力を得ようとするものです。
宗教によっては牛を食べない、豚を食べない等の食制限がある場合があります。 おそらく創始者の時代にはこれを食することにより、病気やアレルギー、環境に対する影響等制限したほうが合理的である何らかの理由があったのであろうと考えられます。
本来「人を幸福にする」ことが目的であれば、時代の進歩により制限が必要なくなったひとには、引き継いだ後継者は勇気を持って変えるべきであろうと思います。 また、変えた理由も明示すべきであろうと思います。
宗教の名の下に他者を攻撃し、殺戮する集団は宗教団体ではなく、宗教を利用して自らの欲望を実現しようとしている輩に他なりません。
自らを「宗教者」と考える人は、今一度創始者が目指した「宗教の目的」を考えてみて頂きたいと思います。 偉大な宗教の創始者は、決して他者を攻撃することを許してはいなかったはずです。

 

             国家の目的は何か
地球上の人類は、今や殆どがどこかの「国家」に属している。 かつては国家という概念が地球全体に普及していたわけでは無いので、先に国家として体を成した欧州諸国が、国家として体を成していない場所を植民地とし、住民を奴隷として使っていた時代が有った。 国家という体を成すと、為政者は国民を守ることが第一義の義務であるため、このような制度は今や見られなくなったことは周知の通りである。 「国家の目的」の第一は国民の生命、財産を守り、幸福に暮らせるようにする事である。

             法律の目的は何か
国家の目的は国民の生命、財産を守ることに有るからそれを遂行するための決まりを作る必要が有り、生まれたのが法律である。 法律にも色々あるが、総ての法律は国民(住民)を「幸福に暮らせる」ようにする事が目的であり、法を守る事はあくまでもこの目的達成の手段の一つである。 法律家や行政職員は時に“法を守らせる”事を目的と勘違いしている場合が有る。 法律を守らせることよりも住民が幸福に暮らせることのほうが重要であるから、目的が達成出来ない法律はその部分を直ちに無効化しなければ成らないので、政治家や法律家はその為に最大の努力をすべきである。 この「法の目的」は次項に私論を詳細に記載したいと思う。

 

          その2  法律の目的は何か

法律の目的は「普通に暮らしている市民の、普通の暮らしを守ること」です。
人類発生時点で法律は無かったわけですが、他の動物より知恵で勝る人間は、集団で力を合わせることにより、より多く合理的に生存することが可能となったために、集団を統制するルールを作る必要が発生し、それが進化して法律として整備されてきました。 そのルールの根本は「自分がされたくないことは、他人にもしてはいけない」ということです。 そして、その罰則は「他人に与えた苦しみ以上の苦しみを加害者に与えることにより同様の犯罪を強く抑止すると同時に、被害者の心をケアし復讐の連鎖を防止する」ことを目的とします。
この考え方を理解して法律の世界を見ると、明らかに間違っている考え方や行動がたくさんみられます。

■計画性のある犯罪は、より罪が重い?
むしゃくしゃして衝動的に起こした殺人より、恨みを抱いた人に対して計画性を持って起こした殺人のほうが、罪が重いと聞きます。 先に述べたように、法律の目的は「普通に暮らしている市民の、普通の暮らしを守ること」です。 これからすれば、恨みを抱いた人に対して起こした殺人は、恨みの無い一般の人には向かわない訳で、衝動的に起こした殺人は次にはまったくかかわりの無い私に向かってくる可能性がある訳ですから、普通に暮らしている人にとっての危険性は衝動殺人のほうがはるかに高いと思われます。
私は、計画性のあるなしではなく、罪の軽重は被害者の責任割合を差し引く引き算の発想ですべきと考えます。 罰則のルールは「他人に与えた苦しみ以上の苦しみを加害者に与えることにより同様の犯罪を強く抑止すると同時に、被害者の心をケアし復讐の連鎖を防止する」ですから、殺人の罰は原則死刑です。 これから、酌むべき事情をひとつずつ勘案して、減刑していくのが合理的であると思います。 たとえば夫を殺した場合でも、長年DVで苦しんだ妻が犯したものと、不倫相手と結婚するために犯したものでは、同じように計画性があったとしても自ずと罰は大幅に違って当然と考えます。 これは、被害者に大きな犯罪の発生責任が有ると考えられるからです。 計画性のある犯罪は、被害者が誘発しているケースも多々あると考えられます。 これに対して、計画性の無い通り魔的犯罪は、被害者に責任が無い場合のほうがはるかに多いと考えられますし、被害者と接点が無いことから犯人特定も困難な場合が多いと考えられます。 繁華街で酒を飲んだ上でのけんかによる殺人は被害者にも責任があることがありますが、強盗目的の殺人などは、被害者には何の責任もありません。 何の責任も無いのに殺されたとしたら、被害者の無念さ、遺族の犯人に対する怒り、憎しみはいかばかりでしょうか。

精神疾患がある加害者は責任能力がなく無罪?
衝動殺人より更にたちが悪い犯罪は、精神疾患者による犯罪です。 凶器や車、爆発物等による大事件で「精神鑑定を行う」という報道が多くなされます。 そして精神科医による鑑定結果が「心神耗弱」または「心神喪失」となれば、無罪となることさえあると聞きます。刑法には「責任が無ければ、刑罰なし」という考え方があり、これにそって司法は判断するようですが、そもそも「心神喪失者なら責任なし」という考え自身が間違いであると私は考えています。 心神喪失するのも、すぐに腹をたてて人に暴力を振るうのもその人の特質のひとつです。どんな人も自分が犯した結果に対しては、責任を負うべきです。 ましてや、心神喪失しやすい人は、理由無く同様の事件を何度も起こす可能性が大きいはずです。そうであれば、先に述べた法律の目的、「普通に暮らしている市民の、普通の暮らしを守ること」を達成できませんし、被害者の心のケアもできません。
心神喪失による犯罪者は、社会に対しては最も危険な存在ですから、刑の免除や軽減どころか一般社会から永遠に、完全に隔離すべきです。

人権派弁護士、考えるのは加害者の人権だけ?
いわゆる「人権派弁護士」なるものが存在するようだが、彼らは死刑廃止を唱え、加害者の責任能力を過小評価させようとする、「加害者派弁護士」である。 事件や事故で身心に最も大きなダメージを受けたのは被害者であり、その親族であるはずだ。 その、最もダメージの大きな方のケアを最重点に考えるのが、人間として当然ではないのか。 加害者は少なくとも社会のルールに反し、他人の人権を毀損したのであるから、人権の制限もしくは剥奪をされるのが当然で、声高に加害者の人権を主張する「人権派弁護士」は、もっと視点を変えるべきであろうと思う。

死刑廃止は世界の潮流?
ヨーロッパを中心に世界で死刑制度を廃止している国は多い。 日本でも、先に述べた「人権派」なるものを中心として、制度廃止を唱えているものもいるが、私は「他人の生命を奪った罪は、自分の生命をもって償う」のが当然であろうと考えている。 ヨーロッパはキリスト教の影響が強いので、為政者はその支持により生まれる結果、廃止国が多くなっているもので、日本はヨーロッパに追随しなければならない理由はない。 
死刑制度は犯罪抑止にも一定の効果があり、何よりも被害者ケアには必須である。 死刑制度は残したまま、前出の引き算の発想で、情状による減刑をするべきと考える。
人権派はまた、「誤認逮捕」による冤罪で法が無実の人間の生命を奪ってもいいのかとの論を述べることがあるが、これはまったく次元の異なる話だ。 誤認逮捕、冤罪はこれを出来るだけ無くすような制度整備を行う必要があるということで、わずかでも冤罪の可能性があるなら制度を廃止しろというのは、交通事故を無くするため、車もバイクも自転車も全廃しろという論と同じことである。 冤罪を防ぐために、証拠主義を徹底し、取調べの可視化を実現し、科学的な捜査手法を高度化する等の施策を要求することが「人権派」のなすべき仕事と考える。

■時効は行政の救済?
時効(公訴時効)という制度がある。犯罪を犯しても、一定期間逃げ切れば処罰できなくなる制度である。 殺人にも時効があったが、さすがに世間の批判が強まり2010年に廃止されたが、私はそれ以外の重大犯罪の時効も廃止すべきだと考える。 そもそも、時効の存在理由は①時間の経過で記憶や証拠が希薄化し冤罪発生の可能性が高まる②被害者の処罰感情も希薄化する③時間の経過で加害者が逃亡生活等一定の社会的制裁を受けており、社会に一定の人間関係を築いていることを尊重する などというものですが、いずれも加害者側からの視点であり、最も尊重すべき被害者側の視点からは納得できるものではありません。被害者感情は、時の経過で強まりこそすれ、希薄化などはしないのです。 ①の主張は先に述べた「証拠主義を徹底、取調べの可視化、科学的な捜査手法の高度化」をより強力に適用し、時の経過を勘案した慎重な判断を求めることにより解決するでしょうし、②や③に至ってはまさに加害者側の視点のみで、とても被害者や一般市民を納得させられるものではありません。 公訴時効制度には警察や検察が時が経過した事件の終了を宣言する口実以外の合理的理由を見出すことは困難です。

一事不再理は必要?
 刑事事件では、一事不再理といって一度判決が確定した事件は、その後どんな新たな証拠が出てきても、被疑者が不利な形で再度裁判をおこされることは無いそうだ。 理由はいろいろ言われており、国際的にも定着し日本国憲法にも規定されているようだが、一般市民の感覚としては納得し難い。 同事件で二度三度と逮捕されては容疑者も大変な負担であることは理解できるが、捜査や鑑定の技術は日進月歩であり、前回裁判時には証拠採用されなかった事象も時の経過で明確になることも多々あると思われる。 再度の事件蒸し返しには相当の制限が必要ではあろうが、絶対にだめというのは警察や検察の面子保護以外の理由は無いのではないか。 被告が有利な形での再審制度はあるのであるから、被告が不利な形でも、被害者からの再審請求制度はあってしかるべきと普通の人は考えると思う。

このように「目的は何か」という視点から法を見ると、数々の疑問がわいてきます。このような疑問を少しでも減らし合理的に機能する法にするための私の提案は法の趣旨を明確に記述した「前文」を付すことです。
■法律は前文を書け!
法制定から時が経過すると社会情勢や科学技術、思想や流通商品等が変化し、法制定時には想定されなかった事象が現れ、法の精神から考えれば当然法に抵触していると考えられるが、条文では明確でないことがしばしば発生する。 現在で代表的なものは「違法薬物」と「ネットを介した違法行為」であろう。
「違法薬物」では規制された薬物の成分を変化させる脱法行為とのいたちごっこが続き、ネット犯罪では新たな手口が次々と登場し、既存の法が適用できるのか出来ないのか議論しているうちに、被害はどんどんと広がっていく。
このような状況にならないためには、法律には出来るだけ「前文」を付けることです。前文が付いている法は一部ありますが、ほとんどの法律には「前文」がありません。
前文にその法の理念や制定目的、時代背景等を記載し、時代が変化しても当該目的を達成するのに障害がある事象や行為を裁判官が容易に、しかも客観的に判断できるようにするのです。 長い時間をかけて法案をつくり、議会で議論しやっと法制定して施行する間に、行政が犯罪類似行為は摘発し、裁判により確定することで、早期に法制定と同様の効果を得ることができます。
被害を少なくするにはスピードが必要です。 「前文」でスピードを上げた法執行を願っています。