令和の日本列島改造論 その18

                                    教育制度の改革により日本の国力向上を!

 

 明治以来、欧米との教育制度格差を自覚した日本は欧米に追い付くため学校を整備し義務教育制度を作り、国民のレベル向上に取り組んできた。 戦後はGHQ主導の6・3・3制教育制度で6・3は義務教育であったため国民のレベルの底上げと均等化が進行し、日本の産業発展に大きく寄与することとなった。 しかし、この成功体験によりその後の時代変化に合わせた教育制度改革は停滞し、世界に通用する人材、産業界を牽引する人材、目標を掲げ起業する人材などを輩出する環境をつくることには程遠い現状となっている。

 日本の高度成長期には低廉で均質な労働力により製造業の国際競争力が高まり、輸出を中心として急速な成長を遂げ経済大国の道を駆け上がることが出来たが、労働コストの上昇で製造業の国際競争力が失われると成長力は鈍化し、製造業の中心を中国をはじめとした発展途上国に明け渡すこととなってしまい日本は「失われた30年」と呼ばれる長期に停滞する活力の乏しい国となっている。  この原因の一つは日本をリードする政治家が一度の成功体験で慢心し、ゆっくりと変化する世界の状況に合わせて国の体制を変化させていかなかったからであり、今なおどのように変化させるかの方向性さえ定まっていないことであろう。 今回は成長力の鈍化が著しい日本の国力を向上させるためにどうすべきかを教育改革という観点から考察してみたいと思う。

 

平等教育公平教育に!

 日本の義務教育制度は国民のレベルを向上させ日本の近代化に大きな貢献をした。 今やほとんどの人が高校以上に進学し、専門学校を含めた大学等進学率が80%を超えるようになった現在、当初の無学文盲の解消目標はとうに達成されたわけであるから、これからは一律平等の教育平均的に底上げする教育から個人の能力最大限に引き出す教育に転換すべきであろう。 

 もともと個人の能力というのは個人間で大きな差があり、また得意分野も夫々の人で大きな違いがある。 この違いを無視して全員一律の授業を行うことは、教える側からすれば大変効率が良いと思われるが、教えられる側からすれば「そんな低レベルのことはわかっているよ」という理解の速い人から「何を言っているか理解できないよ」という理解の遅い人まで同じ速度で授業を進行させる訳で、与える授業時間から考えれば大変平等なのであるが、授業が身に付くという点では公平ではない。 

 個人の持っている能力最大限に引き出すのが公平であるという考え方を採れば理解の速い人は無駄な授業は省いてどんどん高度化していく必要が有ろうし、理解が遅い人は理解できるスピードに授業を落とす必要があろう。 また、人が幸福な一生を送るためには自分の好きなこと得意分野仕事にすることが一つの要素となると考えられるが、それらを無視して一律の教育を施すことは更に公平性に欠けると考えられる。 

 日本の教育は頑なに単線型をまもってきたが国民のレベル向上がある程度進んだ今、自分で進路を選択できる複線型教育環境を整備すべきであろう。 学校教育法や教育基本法を見直し複線型教育が可能となれば各学校は生き残りをかけて差別化されたカリキュラムや体制を整備すると思われる。 多様なカリキュラムや体制が整備され選択肢が増えれば個々人が自ら能力や適性を勘案して最適な進路を選ぶことが出来るようになるであろう。

 

早期から個人の能力を最大化する教育体制を!

 現在は義務教育制度の中で一定時間以上の授業が否応なく全員に課せられている。 多くの人はそれで問題なく成長していると思われるが、その授業体制では成長に問題がある人も一定数存在していることが知られている。 例えば小学生の時から一つの事象、一つの課題に興味が集中し特異な才能を発揮する人がいても、現在の教育体制の中ではその部分だけを大学課程で学ばせることはできない。 逆に授業内容が全く理解できなくても自ら授業以外で対処するより方法はなく、分からない授業に参加しないという選択肢は無い。 

 その人にとって分かっていることを再度教える授業も全く理解できない授業も時間の無駄であるが、平均的な人に合わせる日本式教育ではこのような無駄は頻発する。 時代遅れとなっている教育基本法や学校教育法を見直し、学校ごとの授業や入学要件等の自由度を高め、個人の能力を最大に伸ばす手法を学校自身が工夫実践する余地を大きくしなければならない。

 

ギフテッドはギフテッドとして伸ばす

 ギフテッドと称するある一分野に限って特異な才能を持つ人が見られるが、その才能以外は普通であったり大きく劣っていたりと様々であり、通常の教育になじみにくいとされている。 日本では平均的な能力が評価されるので、ギフテッドの才能の劣っている部分が原因で「扱いにくい変わった子」というイメージにより支援学校に回されたりする可能性がある。 ギフテッドは劣っている部分を矯正するよりはその特異な才能部分を伸ばして育てる方が本人にとっても社会にとっても有用であると考えられる。 欧米のようにギフテッドはギフテッドとして教育環境を選択できる体制を日本も試行すべきです。 一律教育の枠に閉じ込めて才能を殺してはなりません。

 

個人の得意分野を評価する試験を開発する

 日本の教育現場は子供の不得手な教科を少なくする努力をさせる傾向が強いが、この考え方は変えていく必要が有る。 子供の頃は色んな経験をすることにより自分の好きな分野や得意科目などが分かってくる。 人よりも優れた点があることが自己肯定感に繋がり、生きる力となる。 すべてが人より劣ると感じれば自己肯定感が育たずモチベーションを維持できない。 

 しかし才能が無いと思われている人も良く調べれば得意分野が存在する場合が多い。 これら能力が無いと思われている人に対して学校で一律教育をしても大きな無駄がある。 これらの人に対してはまず色々な試験をしてその人の得意分野を探してあげるべきだ。

 IQ検査は知能の傾向を確認できるが、より広く「芸術感性」「運動能力」「五感の鋭さ」「手先の器用さ」などなど筆記試験だけではなく実技や行動をする試験も加えいろいろな能力を推し量る試験を開発し、能力を発掘してそれを伸ばす教育を行うことがその人にとって最も効率の良い教育方法となる。 

 得意分野を探索する試験に知見がある人たちの知見をAIに学習させ、個人の得意分野を効率的に探す試験方法を確立すれば多くの「能力が無い」と評価されてきた人たちの人生を変えることが出来ると思われる。 そしてAIに毎年専門家の研究結果を追加学習させればAIはどんどん進化した試験を提供してくれるでしょう。 

 自分の得意分野を知り、そこで努力すれば周囲から評価されることを知ったときその人は自己肯定感を持つことが出来、更にモチベーションを高めて努力することが出来ます。 人は世の役に立つ一つの能力があれば一生を幸福に生きることが出来るのです。

 

 この様に国は国民のレベルや意識そして世界の趨勢が大きく変化している実態を認識し、国民の能力が最大化する教育環境を作り上げていく必要が有ります。 そもそも教育制度改革というのは20年後30年後、はたまた50年後100年後の日本をどんな国にしていくのかという政治理念を形にするものです。 幸いにもAIをはじめとした革新的技術が日進月歩急激に進歩している昨今であるから、政治家や行政、教育関係者はこれらの知見を集積して過去にとらわれない能力最大化を目指した教育環境を創り出して欲しいと思う。